数学の哲学(すうがくのてつがく、英: philosophy of mathematics)は、哲学の一分野で、数学を条件付けている哲学的前提や哲学的基礎、そして数学の哲学的意味を研究するものである。 また、数学的哲学(すうがくてきてつがく、英: mathematical philosophy)という用語が、しばしば「数学の哲学」と同義語として使われる[1]。しかしながら、「数学的哲学」は、別の意味を少なくとも3つ持っている。一つは、例えばスコラ学の神学者の仕事やライプニッツやスピノザの体系が目標にしていたような、美学、倫理学、論理学、形而上学、神学といった哲学的主題を、その主張するところでは、より正確かつ厳密な形へと形式化するプロジェクトを意味する。さらに、個々の数学の実践者や、考えかたの似た現場の数学者の共同体が日頃抱いているものの考え方(=哲学)を意味する。加えて、人によっては、数学的哲学という言葉を聞いて、バートランド・ラッセルが著書『数学的哲学序論』(Introduction to Mathematical Philosophy)でとったアプローチを思い出す者もいる。
数学の哲学で繰り返し検討されているテーマには以下のようなものがある。
- 数学で扱われる主題の源泉は何か。
- 数学的実体の存在論的地位は何か。
- 数学的対象を指示するとはどういうことか。
- 数学的命題の特徴は何か。
- 論理学と数学はどんな関係にあるか。
- 数学において解釈学はどんな役割を果たすか。
- 数学ではどんな研究が有用か。
- 数学的研究の目的は何か。
- どうすれば数学は現実世界と関わるか。
- 数学の背後にはどんな人間的特性があるか。
- 数学における美とは何か。
- 数学的真理の源泉は何か、数学的真理とは何か。
- 数学という抽象的な世界は、物質世界とどんな関係をもつか。
[編集] 数学の哲学の歴史概略
歴史上、多くの思想家が、数学とは何かに関して彼らの考えを明らかにしてきた。今日でも数学の哲学者たちの中には、この種の問いとその成果をあるがまま説明しようとする人々もいるが、他方で、単純な解説に飽きたらず、批判的分析へと進む役割をもって任じる人々もいる。
西洋哲学と東洋哲学の両方に、数学的哲学の伝統がある。西洋の数学の哲学は、数学的対象の存在論的地位を研究したプラトンと、論理学や無限(実無限と可能無限)に関する諸問題を研究したアリストテレスにまで遡る。数学に関するギリシア哲学は、彼らの幾何学の研究の強い影響の下にあった。かつてギリシア人は、1は数ではなく、むしろ任意の長さの単位であるという意見を持っていた。数は、多[2]であると定義された。それゆえ、例えば、3は、単位長の多[2]を表しており、本当のいみの数では決してなかった。また同様の理由で、2は数ではなく、1対(つい)という基本概念であるとする議論が行われた。この理解は、「直線・辺・コンパス」という、たぶんに幾何学的なギリシアの視点に由来している。その視点とは、幾何学的問題において描かれたいくつかの線が最初に描いた任意の長さの線との比で測定されるのと同様に、数からなる線上に置かれたそれぞれの数は、任意の初めの「数」つまり1との比で測定される、というものである。これらの初期のギリシアの数の概念は、後になって、2の平方根が無理数であるという発見によって、打ち倒された。ピュタゴラスの門人であるヒッパソスは、単位正方形の対角線は、その辺と通約不能であることを示した。換言する と、彼は、単位正方形の対角線とその辺の比を正確にあらわす(有理)数が存在しないことを証明した。これが原因となり、ギリシアの数学の哲学は再検討されることとなった。伝承によれば、この発見によって傷つけられたピュタゴラス学派の学徒達は、ヒッパソスが彼の異端な考えを広めるのを防ぐために、彼を殺害した。
ライプニッツとともに、焦点は数学と論理学の関係へと、強力に移動した。この見方はフレーゲとラッセルの時代を通して数学の哲学を支配したが、19世紀終期と20世紀初頭における発展によって疑問を付されるようになった。
[編集] 20世紀における数学の哲学
数学の哲学のかわらない課題の一つは、論理学と数学の双方の基礎につながる、相互の関係に関わっている。20世紀の哲学者が本記事の冒頭に掲げたような様々な問いを立てていく中で、20世紀の数学の哲学は形式論理学、集合論、基礎付けの問題への目立った関心によって特徴付けられる。
一方で数学的真理が避けがたく必然的であるように思えるのに、他方でその「真理性」の源泉がとらえどころがないままなのは、なかなか理解しがたい謎と言える。この問題の研究は、数学の基礎付けのプログラムとして知られる。
20世紀の初め、数学の哲学者たちはすでに、これら全ての問題に関して、数学の認識論と存在論をどのように思い描くかをめぐって、多様な学派に分かれていた。3つの学派すなわち形式主義、直観主義、論理主義がこのとき現れたのは、部分的には、それまで当然のことと考えられていた確実性と厳密性の基準を当時の数学、とくに解析学が満たしていないのではないかという当時広がりつつあった懸念への応答であった。当時この問題は焦眉の課題であり、問題の解決を試みるのであれ、数学には我々の最も信頼できる知識という地位を授かる資格がないと主張するのであれ、どの学派もこの問題に取り組んだ。
20世紀の初めに形式論理学と集合論が驚くべき、そして反直感的な発展を遂げた結果、「数学の基礎」と伝統的に呼ばれてきたものに関係する新たな疑問が生じた。紀元前300年前後のユークリッドの時代以来、公理に基づく手法は、数学の自然な基点だと受け止められていたが、20世紀が進むにつれ、当初の関心の焦点が拡張され、数学の基礎的な公理に対する制限のない探求へと至るようになった。公理、命題、そして証明といった観念、そしてまた数学的対象の命題の真理についての観念が、形式化され、数学的に扱うことが許されるようになった。ツェルメロ=フレンケルの公理系は、多くの数学的議論を解釈する概念的枠組みを提供するものとして集合論を定式化した。物理学におけるのと同様に数学においても、新しい、予期し ないアイデアが登場し、特筆すべき変化が訪れた。ゲーデル数によって、数学理論の無矛盾性の研究が可能となった。検討されている数学的理論が「それ自体、数学的研究の対象となる」という反省的批判を、ヒルベルトは「超数学」(メタ数学)(英: metamathematics)又は「証明論」(英: proof theory)と呼んだ[3]。
20世紀の中ごろ、圏論として知られる新たな数学理論が、自然言語による数学的思考に対する新たな競争者として登場した(Mac Lane 1998)。しかしながら、20世紀が進むにつれ、まさに当初提起された基礎付けに関する疑問自体が如何によく基礎付けられるのか、というところへ哲学的関心は広がっていった。ヒラリー・パトナムは、20世紀後半の35年間の状況についての一つの共通見解を、次のように要約した。
哲学が科学における誤りを発見したときは、しばしば、科学は変わらざるを得ない。例えばラッセルのパラドックスがあるし、バークリーの現実的無限小への批判も思い浮かぶ。しかし、それよりも変らなければならないのは哲学であることのほうが多い。私には、哲学が今日の古典的数学に見出している困難が、真の困難とは思えない。そして、私は、我々が四方八方から提案されている数学についての数々の哲学的解釈は誤っており、「哲学的解釈」はまさに数学が必要としていないものだ、と考えている。
— Putnam, 169-170.
今日、数学の哲学は、数学の哲学研究者、論理学者、数学者によっていくつもの異なる研究の方向に進んでおり、この主題に関する多くの学派が存在する。次の節で、これらの学派を個別に取り上げ、彼らの仮説を説明する。
[編集] 現代の学派
[編集] 数学的実在論
実在論が一般にそうであるように、数学的実在論もまた、数学的実体が人間の心とは離れたところに実在していると考えている。それゆえ、人間が数学を発明したのではなく、数学を発見したのだ、ということになる。宇宙に別に知的生命がいるとすれば、それがどんな存在であっても同じように数学を発見するであろう。この観点から言えば、発見されうる数学はたった一種類だけである。例えば、三角形は真の実体であり、人間の心が生みだしたものではない。
現場の多くの数学者は数学的実在論者であった。彼らは、彼ら自身を自然に発生する対象の発見者だとみなしている。数学的実在論者の例には、ポール・エルデシュやクルト・ゲーデルも含まれる。ゲーデルは、ある意味で感覚的知覚と同様に知覚されうる客観的な数学的実在を信じていた。彼らによれば、無媒介に真であると考えられる確実な原理(例えば、任意の二つの対象について、正確にその二つの対象によって構成される対象のコレクションが存在する)というものがいくつかある。しかし、連続体仮説のように、そのような原理だけをもとにしては決定的に証明することができない仮説もある。ゲーデルによれば、このような仮説を合理的に仮定するのに十分な証拠を提供するために、準経験的な方法論を用いることができ� ��。
どんな存在が数学的実体であるのか、また、どうすれば我々はそれらを知るのかをめぐって、実在論の内部にいくつもの異なる立場がある。
[編集] プラトニズム
実在論の一形態としてのプラトニズムは、数学的実体が抽象的であり、空間的時間的ないし因果的な性質をもたず、永遠不変のものであると考えている。数というものについて、多くの人々がこのような見解を抱いているとしばしば主張される。プラトニズムという用語が使われる理由は、このような観点が、不変かつ究極的な実在に対して日常的世界がその不完全な近似であるに過ぎないとする、プラトンの(「プラトンの洞窟」のたとえで表される)「イデア界」の教説とパラレルであるように見えることに由来する。「プラトンの洞窟」とか「プラトニズム」という言い方には表面的というにとどまらない深い意味がある。なぜなら、古代ギリシアではピュタゴラス教団が広範な人気を誇っていたが、この学派によれば世界は文字� ��り数から生まれたのであり、そしてこの学派は時間的にプラトンの思想に先行しており、おそらくプラトンの考えはこれに影響を受けているからである。
数学的プラトニズムの主要な問題は、次のようなものである。数学的実体は、正確にどこに、またどのように存在するのか? また、我々はそれをどのように知りうるのか? 我々の物理的世界と完全に分離され、数学的実体によって占有された世界があるのか? どうすれば我々はその分離された世界に接近でき、数学的実体についての真理を発見できるのか? 一つの答えは究極集合の理論であろう。この理論に従えば、数学的に存在するすべての構造は、それ固有の世界において物理的にも存在するものとされる。
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