パターソン(英: Paterson)は、アメリカ合衆国ニュージャージー州パサイク郡にある都市であり、郡庁所在地である。2010年の国勢調査による市の人口は146,119人であり[2]、前回2000年国勢調査より約2%減少した。ニュージャージー州では3番目に大きな市である。18世紀末に産業革命が始まった時、パターソン市はアメリカの工業化の先端を走り、その隆盛と空洞化の歴史を見てきた。19世紀後半に絹の生産では図抜けていたので、愛称は「絹の市」である。
1831年4月11日にエセックス郡アクアカノンク・タウンシップから分離してタウンシップとなり、1837年2月7日に新しく作られたパセーイク郡に編入された。1851年4月14日に行われた住民投票の結果、市制を布くことになった。さらに1861年3月14日に市制を再度布き直した[3]。
1791年、アレクサンダー・ハミルトンは有益な製造者設立のための協会 (S.U.M.)創設を支援した。この協会はパセーイク川のグレートフォールズからのエネルギーを利用することを奨励し、イギリスの製造者に依存しない経済を作るためのものであった。この協会によって作られたパターソンの町はアメリカにおける産業革命の揺籃となった。パターソンの名前はニュージャージー州知事でアメリカ合衆国憲法に署名した政治家ウィリアム・パターソンの名前に因んで名付けられた。
フランス人の建築家で技師、またワシントンD.C.の都市計画を作ったピエール・ランファンが、S.U.M.計画の最初の監督者だった。ランファンはグレートフォールズの力を岩の間の溝や水路を通して利用する計画を作った。しかし、協会の支配人は、計画が時間を取りすぎ、また予算を超過すると感じた。監督者はピーター・コルトにすげ替えられ、1794年に工場へ流す水を得るためにより簡単な貯水池のシステムを使った。最終的には、コルトのシステムに多少の問題が見つかり、ランファンが立てた最初の計画に近いものが1846年以後使われるようになった。一方でランファンはワシントンを計画したときの都市計画を持ってきており、パターソンの都市計画もランファンが望むものに近くなった。
パターソンで発展した産業には、落差77フィート (23 m)のグレートフォールズからエネルギーを取り出す水路の仕組みが使われた。市は滝を中心として成長を始め、滝のエネルギーを使う工場は1914年まで存在した。その地区には数十の工場や製造用構造物が立ち並び、当初は繊維産業、後には武器、絹および鉄道用機関車が造られた。1800年代の後半、絹の生産が重要となり、パターソンが最も繁栄した時代の基礎となった。市のニックネームも「絹の市」になった。1835年、サミュエル・コルトがパターソンで武器の製造を始めたが、数年のうちにコネチカット州のハートフォードに拠点を移した。19世紀遅く、ジョン・ホランドが発明した潜水艦の実験場となった。ホランドが作った2つの初期モデルのうち、1つはパセーイク川の底で見つかり、パセーイク・フォールズに近い工場跡にあるパ� ��ーソン博物館に展示されている。
パターソン市は工場で働く移民労働者のメッカにもなった。児童労働規制に焦点を当てた歴史的労働争議が起こり、1913年には8時間労働と作業条件の改善を要求した絹工場のストライキが6か月に及んだが、労働者は経営者側に屈してストライキの前の状態に戻ることを強いられた。工場作業者は危険な環境で長時間、低賃金で働き、工場の回りにある住居棟に大勢が押し込められていた。工場はその後労働組合の無い南部に移転し、さらに海外に移った。
1932年、パターソン市に7,500席のヒンチリフ・スタディアムがオープンした。これは元市長ジョン・V・ヒンチリフから名前を貰った。ヒンチリフ・スタディアムは当初、航行やセミプロの競技に使われていた。1933年から1945年にかけて、ニグロ・ナショナル・リーグに加盟するニューヨーク・ブラック・ヤンキースのホームとなり、その他にも多くのフットボール試合、陸上競技、ボクシングの試合、およびアボット&カステロを含むショーに使われた。1970年代、パターソン教育委員会がスタディアムを取得し、1997年まで公立学校の行事に使った。現在、ヒンチリフ・スタディアムは補修中である。しかし、ヒンチリフ・スタディアムはアメリカ合衆国に2つしか残っていないニグロ・リーグに使われたスタディアムの1つとなった。
第二次世界大戦の時、パターソン市では飛行機のエンジン製作で重要な役割を果たし、活気が少し戻った。しかし、戦争が終わると、都市部での荒廃が進んだが、パターソンも例外ではなかった。1970年以降、高い失業率に喘いでいる。1980年までにパターソン市はアメリカ合衆国でも最も不況の厳しい都市の1つになった。町には映画館や自動車の販売店もなくなり、大きな百貨店は閉店し、子供のエイズ、失業率、ホームレス、文盲率および卒業率といった社会指標が、1990年代の経済ブームに拠る繁栄の間も全てが割る方向に進んだ。問題のある学校は州が肩代わりをすることになった。
かってパターソン市はニュージャージー州北部で買い物やレジャーの目的地であったが、近郷のウェインやパラマスのような町に大規模のショッピング・モールができて競争となり、パターソンの中心街から大手のチェーンストアが消えた。工場は海外に移転したために最大の産業は今では小さな事業の集まりとなった。しかしそれでも、パターソン市には多くの移民を惹き付け続けている。これら移民の多くが小さな事業によって町の経済を再活性化してきた。
町の中心街はこれまで数度大火に見舞われた。最近のものでは1991年に起こった。この火事では、南北がメイン・ストリートとワシントン・ストリート、東西がエリソン・ストリートとカレッジ大通りに囲まれた区画のほとんどが、酒場の地下室からの漏電火事で一飲みにされた。被害の程度が大きかったので焼けた建物は取り壊され、今は屋外市場がそこに建っている。破壊された建物の中でも有名なものにメイヤーブラザーズの百貨店があり、これは町に残っている数少ない百貨店の1つであった。
[編集] ランバート城博物館
ランバート城はカトリーナ・ランバートの居宅として1893年に建てられた。ランバートはパターソン市でも傑出した絹工場の創業者オーナーであった。城は中世復古建築様式で建てられており、ランバートが少年時代に記憶していたイギリスの城を思わせる家を建てたいという夢を追ったものだった。
1923年にランバートが死に、その家族は建物をパターソン市に売却し、市は数年後にパセーイク郡に転売した。パセーイク郡はこれを庁舎として使用し、1936年には1室を出来たばかりのパセーイク郡歴史協会に与えて、歴史博物館とした。時の経過と共に博物館は大きくなり部屋を増やして、1階全体が歴史博物館になった。
1990年代遅く、この城に数百万ドルの補修を掛けて、4階全てが博物館と図書館に変わった。今日所有者はパセーイク郡のままであり、機能の操作を支援している。しかし、パセーイク郡歴史協会は単にランバート城博物館の歴史のある部屋、長期および入れ替えの展示ギャラリー、小中学生の教育プログラムおよび研究図書館と資料保管の操作と管理に責任があるだけである。私設で会員に支えられ非営利団体であるパセーイク郡歴史協会はランバート城博物館にある歴史的工芸品、絵画および古文書を所有している。この特徴有る公と私の共同によってパセーイク郡の住民は誇らかに歴史博物館を持っていると言うことを可能にしている。
パターソンは北緯40度54分56秒 西経74度9分47秒 / 北緯40.91556度 西経74.16306度 / 40.91556; -74.16306 (40.915498, -74.162927に位置し、アパラチア山脈の麓の丘と海岸平原の間にあるピードモント台地にある。
アメリカ合衆国統計局によれば、市は総面積22.6 km2である。うち21.9 km2が陸地で残りが水域である。総面積の3.32%が水域となっている。