石巻ボランティア体験記 西脇 | 東京都市大学 現代ジャーナリズム研究室 学生版
石巻市ボランティア日誌
東京都市大学環境情報学部情報メディア学科 3年
現代ジャーナリズム研究室 西脇 一馬
<石巻ボランティア日誌1日目>
せっかくのボランティアなので日記というか日誌というか、とりあえず書いてみようと思う。参加メンバーは、ゼミの約半数の7人と小俣さんの計8名。あの世界一周旅行で有名なピースボートの被災地ボランティアに参加することになった。
家を出てから集合場所に着くまで、とてつもなく重い荷物を引っ下げながら、電車に乗り込む。周りの人の視線が集まる。でかい荷物と寝袋を持っていればそりゃ気になるか。途中、電車の乗り換え時にゼミ生の手塚と合流し、様々なことを話しているとあっという間に目的地に着いてしまった。その後ゼミ生みんなで駅に集合し、延々と続く地上までの階段を上がっていった。途中一人だけバッグが壊れてみんなに置いて行かれた。出発は8月2日夜、新宿都庁前の公園に約80名の参加者が集まり、大型バスに乗り込んだ。目的地の宮城県石巻市までは約8時間の長旅だ。
小俣さんと達ちゃん、貴哉、彩翔ちゃん、そして一般の女性1人の併せて5人のメンバーは第5班。自分たちは、手塚、南実ちゃん、茉央ちゃんと自分の4人で第14班になる。出発前にコンビニで買ったお菓子や水が重い、どうも自分たちは、遠足気分というか少し気の抜けた状態だと4人でちょっと反省しながら、東京の地を離れた。茉央ちゃんと手塚の二人は寝付けなくてぐったりしていたが、南実ちゃんと俺は、ぐっすり眠れた。バスの中では寝心地は悪かったものの不思議と眠りにつけた。
<石巻ボランティア日誌2日目>
途中3回の休憩を挟んで宿泊地となる「カスカ・ファッション=ピースボート宿泊地」に着いたのは午前6時頃。朝からハイテンションのカスカ責任者のまっつんさんや様々なボランティアの人に迎えられて初めて宮城県の地に足をつけた。まず、一番最初に感じたのが神奈川じゃありえない位の涼しさ。肌寒い位のその空気に夏とは言え東北に来たのだと実感した。次に感じたのは独特の匂いと砂塵(?) 聞いてはいたもののいざ自分の身体で感じてみると表現は難しいけれど不思議な雰囲気だった。その後は荷解き、オリエンテーション、準備、朝礼、ラジオ体操、そして各作業現場に移動。 正直、ラジオ体操なんて数年ぶりに真面目にやった気がする。
そして自分達14班に割り振られた仕事は、お寺のお墓の掃除。地震によって引き起こされた津波は、石巻のあちらこちらには押し寄せたヘドロが大量に蓄積し、車や様々な瓦礫の山を残していった。今日担当するお寺も、そういった被害を受けたもののひとつだ。その地震からもうすぐ5ヶ月。さすがに大半のものは片付いたものの、いまだその傷痕は残っている。目的地に着くまでに見た、誰もいない多くの空きテナント、横から見ると何ともないけれど正面は大きな穴の開いたスポーツ施設、ひび割れが激しく住むことも許されない住宅。震災から5ヶ月。首都圏ではあまり注目されなくなった被災地では今でもまだ声にならない悲鳴は止まない。
竹箒やバール、多くの清掃道具を抱えてお寺へと向かった。天気はあいにく曇りや小雨が降ったりだったが、おかげであまり熱中症を気にする必要はなかった。それでも雨の中の作業は体力をかなり削られる。油断は禁物だ。作業の内容は、お墓のまわりにいまだ残るヘドロをスコップで掻き出し、まわりに生えた雑草を抜く、その作業のくり返しだ。途中何度か雨脚が強くなってきたため、お堂の縁の下で雨宿りをした。結局、そのままお昼休み。少し大きめのおにぎりをほおばって自然と「うまい」と声が出た。おにぎりってこんなに美味しかったのか。
その後作業を再開して、土嚢袋にヘドロを入れている途中、住職さんから地震直後の写真を見せてもらったり、様々なお話を聞かせていただいた。海からは離れていたのに180cmの津波が押し寄せ、あらゆるものを薙ぎ倒して行ったという。 大量のヘドロが蓄積して辺り一面が灰色とも黒とも言えないものに覆われてしまった。震災から今まで多くのボランティアが訪れ、片付けを手伝ってくれ、それらの人々にたくさんの被災者の方々が感謝していると話していた。 自分達はその前任のボランティア達のやってきた事の総まとめを任されているんだ。いままでの人達の気持ちを引き継いで行こう、そして少しでも多くの被災者の方々に笑ってもらいたい。そう思った。
グアナフアトのトップクラスの大学
その夜に開かれた一日の反省会では総勢80人の各チームの課題点やなぜ自分がボランティアに参加したのかを聞いた。みんなそれぞれ様々な考えを持って参加しているんだと感じた。ゼミの仲間が、「自分達みたいな素人が行ったところで足手まといになるだけだ」と行く前に他の人から言われたと語ってくれた。
「でも、そんなの嘘だって思った。石巻の人達はどんな人だって優しく受け入れてくれるし、自分達もそのおかげで頑張れる。」とも語っていた。本当にその通りだと思った。被災者の人達は自分達にとても優しく接してくれる。 自分達もそれに応えられるように頑張れる。 今までボランティアのボの字も知らなかった自分達にみんな感謝してくれる。
管理人の、まっつんが言っていた。「人との出会いは時に偶然ではなく必然と感じることがある。自分達が今ここでボランティアを出来ているのも被災した石巻の街の一帯に顔のきく、ある方に出会えたからだ」。その時誰かがこの地にいて、その人に出会えたからこそ今があるのだ。人との出会いは一期一会。でも一歩前に進まなければその機会もない。一歩前に踏み出す勇気を持っているならば誰にでも必ず救える人々が確かにいるのだ。 今自分達はその一歩を踏み出したに違いない。
2011年8月3日
<石巻ボランティア日誌3日目>
朝の凍えるような寒さで目が覚めた。とりあえず、どこでもどんな環境でも眠れるのが自分の取り柄のようだ。ゼミ生数人で朝ごはんを食べ、今日も一日が始まる。早朝のラジオ体操をしながら小学生時代の夏休みに、よくラジオ体操をしたなと昔の思い出と重ね合わせながら全力で体操をした。頭がすっきりする。やっぱり朝の体操は身体にいいみたいだ。
今日は昨日と違って石巻市の中心部の側溝に溜まったヘドロを掻き出す作業をやることになった。昨日、5班のみんなが体中をボロボロにしながらやったという話を聞いていたのだが、確かにこれは辛い。バール、ジャッキを使い側溝の蓋を外して、スコップでヘドロを掻き出し、土嚢袋に詰めて蓋を戻す、この繰り返し。重労働の上に炎天下の中作業を続けるのはかなりの体力がいる。一緒に行動した10班の人たちと色々なことを話しながら、作業をしているとあっという間にお昼休みだった。
お昼は市街地でとても美味しいと話題の中華料理屋で、ラーメンを食べた。
担々麺が話題のお店だったのにそれを食べなかったことを手塚と反省しながら、「明日こそは担々麺を食べよう」そう思いながら作業場に戻る。でも途中、茉央ちゃんが熱中症の初期症状とも見られる状態になっていたので彼女だけは長めに休憩。やはり女の子にこの作業量はちょっときつそうだ。
日差しが強く照りつける中、作業を再開する。10班のある人は、シャツを絞るとビシャーという音が流れるくらいの汗を流していた。かくいう自分もつなぎの中のシャツはビショビショ。おそらく量にして500㍉㍑の汗をかいた気がする。誰もが気付くとペットボトルが空になっている。なるほどこれはかなりしんどいな。それでも作業をしている間は不思議と楽しかった。
おそらくボランティアに参加しなければ、これから関わる可能性さえなかったであろう様々な人達と楽しく話したり、共同作業を出来たりしたこと。作業をやる前とやった後の成果が目に見えることでやる気にも繋がったと思った。 その日の作業は恐ろしく早く終わったように感じた。人間集中するとここまでやれるのか。
そのあと、宮城県の中でも津波の大きな被害を受けた「女川町」を訪れた。
正直、見て感じた事を文章にすることはうまくできそうもない… 。ただまったくと言っていい程、生活というもの。生き物の息が聞こえないというのだろうか。日常というものを根こそぎ奪われた町並み、時間が止まってしまった風景。今でも完全に倒れてしまって正しい方向がわからないビルや、完全に海の中に沈んでしまっている横断歩道、高台にただ一つ残った病院が鮮明に思い浮かぶ。
悔しさは、芸術を下回る
ある被災者の方が言っていた。「たとえ人間がどんな物を作っても、自然には勝てません。災害は防げないのです。でも、人災は防ぐ事ができます。自分の大切な人のために何ができるかよく考えてみてください。」 またある人は、「災害はどこで起きるかわかりません。今回もたまたま東北で起きたに過ぎません。ただ今回のボランティアで得た経験を次に災害に見舞われたその地でも活かしてもらえれば嬉しいです」 と。災害は起きてしまった。今でも被災者の人たちは安心などと言うものからは、ほど遠い場所にいる。それでも、どの人もこの地だけでなく先の事に繋げて欲しいと願っている。
そう、次はどこで起こってもおかしくないのだ。ずいぶん前から言われている静岡かもしれない。最近活断層の動きが活発になってきている横須賀かもしれない。災害に人は勝つことはできない。でも、次につなげられるものは確かにあるのだ。今回も阪神大震災の時の経験が役に立ったと聞いている。ただ、自分達は決してこの事を忘れてはいけない。 メディアではすっかり大震災の熱は冷めきり話題になるのは原発の問題とその責任問題。人々の頭の中から消えていくこと、それはとてつもなく恐ろしいことだ。
この災害を、亡くなった人達を、いまだ始まったばかりの復興への道を。被災地の、被災者の方達はまだまだ元通りの生活になど戻れていないことを。きっと自分達もこの地を訪れなければ知ることはなかったはず。この歴史的な事件を、僕達は語り継いでいかなければならない。決して誰も忘れてはならないのだ。
2011年8月4日
<石巻ボランティア日誌4日目>
俺たちのボランティアの朝は「ラジオ体操」と「アンパンマンのうたの合唱」をみんなでするところから始まる。ボランティアという立場は、みんなを支えているようで多くの人に支えられている。そう感じることが多かった数日間。特にこの日はそう感じることが大きかった日だった。
作業3日目は、昨日に引き続き、側溝のヘドロ掻き出し。自分たち第29次14班は10班の方々と一緒に作業に当たった。側溝の掃除というものは想像していた以上にしんどいもので、特に2日連続となると、とにかく足腰がかなり痛い。でも10班の方々は、初日から3日連続での作業だ。より辛かっただろうと思う。 ヘドロの掻き出しと言っても大半のものは既に乾いて土のようになっているため、スコップで掻き出せば大半は終わる。ただこの日は、本当にヘドロといった感じのものにぶち当たった。地震から約5ヶ月経った今も、半液体状のものが残っていたのだ。しかも海からは離れた住宅地のど真ん中に。昨日の女川の風景と重なって、改めて津波の恐ろしさを思い知った。
自分たちが担当した石巻駅の周辺を囲む住宅地、通称駅北地区の側溝掃除も前任のボランティア達の作業と併せればだいぶ進んできたようだ。その辺一体のボランティアの面倒を見てくださっている理容院のおじさん「コマツさん」はとても面倒見のいい方で、何かと自分たちのことを気に掛けてくれている。 地震から今まで、多くのボランティアを見て多くの事を話してくれていた。
夕方、自分が聞いていた中で、特に印象に残った言葉がある。「昔は、感謝するものといったら神様、仏様だったけど、今私たちが感謝しているのは自衛隊様、ボランティア様なんだよ。」 「うちなんかはまだ良い方だ。この前の家も、その向かいの家も、隣の家も、もう誰も戻ってこないんだ。いやだれも戻ってこれない。だからもうすぐ取り壊し作業が始まるんだ。」
実際にコマツさんのお店の前の家は翌日には取り壊し作業が始まった。
多くの人が、家を失って、家族を失って。そしてたとえ家が残っても、みんなこの地から離れて行ってしまう。たとえ石巻が元に戻っても、元通りの生活は戻ってこない。すごく聞いていて泣きそうになった。でも俺たちは泣いちゃいけないんだ。震災の後、多くの自衛隊員が駆けつけて水に沈んだ街の中で、救出作業を行ったらしい。ただ、自衛隊のヘリはあまりにも動力が強すぎて強烈な風を出してしまい、二次被害を出してしまったこともあったようだ。それでも彼らが真っ先に動いた事で、多くの人たちが救われた。
教育退職のナイアガラの滝ボード
女川でも使えなくなってしまった道路を仮設ではあるものの造り直してくれたのは自衛隊だったらしい。最近何かと軍備縮小やらなんやらのために立場が狭くなっている彼らの重要性を改めて知った気がした。自衛隊と同時期にボランティアの先遣隊も現地入りし、主に心のケアを担当したらしい、ボランティアに救われた人もたくさんいたと聞く。
ボランティアという立場。一人一人に大きな力はなくとも、それが集まれば大きな力になり多くの人々を支えることができる。そしてボランティアも多くの被災者の人たちと過ごし、仲間と働き、多くの現実を知って成長していく。
作業は確かに辛かった。けれども不思議と終わってみると体が軽く頭もはっきりする。 それに担々麺も食べられた。とてつもなく美味しかった。後ろを振り返って綺麗になった側溝を見ると、大きな達成感に包まれた。
最終日。今までの疲労感、達成感。
やっと終わったというよりもなんだかもう終わってしまったのか・・・という喪失感というか虚無感というか。
そういったものにゼミ生みんなが包まれていた。またここに来よう。自然とそう思えた。
2011年8月5日
<石巻ボランティア日誌5日目>
バスの中は寒い。でもそれは、初めて宮城の地に訪れたその時の肌寒さとは違う、人工的な寒さだ。その寒さのせいか珍しく眠れないでいた。もう出発から1時間は経っただろうか、バスの中はとても静かだ。通り過ぎる風景を見ながらボーッとしていると、高速道路の案内板が目に入った。もう宮城をとっくに出てしまっている。数時間前まで、石巻の地で汗を流していたのに知らぬ間に少しずつ東京に近づいて行っているんだな・・・。もちろん疲れもあるのだろうが、帰れるという事に安心したのもあるのだろうか。さすがに行きは眠れなかった人たちも眠りにつけたようだ。
途中何度か時間調整等をして気付けばもう埼玉だ。
結局・・・俺はと言えば、全然寝れていない。外も明るくなってきた。段々と外の景色にビルが増えてきた。東京に入ったのかもしれない。女川の風景がフラッシュバックして、ビル群にとてつもない違和感を覚えた。まもなく、新宿駅前に到着した。時刻は4時20分。空気が重い、暑い、息苦しい。東京の方がむしろ最悪な環境に感じた。不思議なもので、こんな短期間でも土地に対する愛着は湧くみたいだ。石巻がすごく遠くに感じた。早朝でも人があふれ賑やかな街。
眠らない街、東京。いつもの日常に俺たちは帰っていく。
<石巻ボランティア日誌 番外編>
朝、茹だるような暑さの中、嫌でも目が覚めた。どうやら両親は仕事、弟は予備校へ行った後のようで、起きて最初の「おはよう」は、ソファーを独占している我が家のアイドル猫の「むさし」に言うことになった。
ボランティアから戻ってきて2、3日は、気付くとボランティア期間の起床時間6時前後には、目が覚めていたが・・・どうやらすっかり元の生活リズムに戻ってしまっているようだ。そんな自分がちょっと嫌だ。リビングに置いてある朝刊を広げながら、コーヒーを飲んでいると8月11日という日付が目にとまった。「ああそうか、もう5ヶ月も経つのか・・・」誰もいない家でなぜかふと声に出た。
気がつけば、初めて宮城の地に足を踏み入れボランティア活動に汗を流した日々からもう一週間が経つ。少しずつ平和な日常に溺れる日々に体が戻っていくのを表現しにくい感情が襲った。少々偽善的な言葉になってしまうが、ゆっくりとした日々を過ごす度に、被災者の人たちがまだまだあんなに大変な日々を送っているのに自分はこんな事をしていて良いのだろうか・・・などと考えてしまう。
それでも毎日、こっちではこっちの生活を過ごしていかなければならない。ボランティアに行く前からわかっていたことだが、帰ってきたらすぐに学内インターンシップの受け入れ企業先に挨拶に行かなければならない。昼間から、大量の汗をかきながら東京に向かった。スーツを着た状態でかく汗は、つなぎを着ながらかいた汗とはなんだか少し違う気がした。渋谷に行き交う人々を見ながら、女川の凄惨な光景とのギャップに違和感を覚えた。
企業への挨拶が済んだ後、一緒にインターンに参加するメンバー、Y下君とS元君の2人と軽く飲みに行った。二人は等々力キャンパスの学生で、聞けば中学時代からの知り合いだという。甲子園に出場する都市大塩尻の話で盛り上がる中で、ボランティアの話でも盛り上がった。特にS元君は、等々力キャンパス内で募集された被災地ボランティアで福島県に行くらしい。ただ、ボランティアといいながらもその実態は被災地の視察がほとんどで、もっと被災者の人たちの為に働きたいと愚痴っていた。「よかったら、今度一緒に行かないか」と話しながらその後2時間近く飲んで食って話した。
ボランティアに参加してからというもの、よく周りの人たちから「ボランティアに行ってみたいんだけどどうだったか聞かせてくれないか」と話しかけられる。皆、少なからずボランティアに興味を持って動きたいと考える若者たちは意外と多いようだ。今、キーボードを打ちながら最終日の全体ミーティングでの話を思い出す。
自分たち14班が3日間行動を共にした班の中で13班のリーダーをつとめていたT橋さんという50代後半の方がいた。初日のミーティングから数回発言をしていた方で、奥さんと一緒にボランティアに参加したらしい、とても物腰の良い優しそうな方で、話もとてもわかりやすく聞きやすい。そのT橋さんは、実は少年鑑別所の職員さんらしい。普段は、多くの間違いを犯した若者を更生させるために日々汗を流しているそうだ。
まっつんが、昔やんちゃだった過去も明かされ、場の雰囲気はすごく明るくなった。このひとはすごく話がうまい。今回のボランティアを通して感じた事を話してくれた。「普段、私の職場で見ている子供達と今この場にいる若い人たち、特に大きな差はないと思うんですね。もちろんみなさんは犯罪を犯すとは思っていませんけれども。」独特の柔らかい口調で言っていた。
「でも今この場にいる人たちは、少なからず、なんとかしなきゃ、なにかしなきゃって思ってここにいると思うんです。それはすごくすばらしいことだと思うんです。」「そしてそんな若い人たちがたくさんいることがとてもうれしく思います。私たちみたいな中年ももっと頑張らなきゃ、負けていられないなって思いました」
他にも大学の教授であったり、高校の先生や中学校の先生、建築関係の仕事をしている方などだったり、多くの大人達が皆、若い世代と関われて元気が出たとおっしゃってくれた。まっつんも、「本当に若い人たちがたくさん参加してくれてうれしいです。19歳、20歳21歳、みんな口々にもう20歳だというふうに言いますけど、まだ20歳なんです。」
「もっともっとたくさんの経験をする機会があと何十年も残っているんです。そのなかで今回のボランティアに参加してくれたことで、多くの経験をしてもらえたと思います」「今回の様々な経験を少しでも今後の人生に生かして、そして少しでも多くの人に今回のことを伝えてください」そう話していた。
俺たちは何かと「ゆとり世代」であるとか「最近の若者は」などと揶揄されることが多い。そんなことを言う大人は大嫌いだし、そんな高みの見物だけしているような大人は、そんなことを言う権利はないと思った。
そんな人たちに言ってやりたい。「俺たちを嘗めるな、若い世代だってやれるところを見せてやる」少なくとも言うだけで何もしない大人よりは俺たちはマシなはずだ。T橋さんだけじゃない多くの大人達が、時間を削って自分たちと一緒にボランティアをしてくれたのだ。そんな中で、若い世代のことを見直してくれた。そのことがすごくうれしい。
短期のとても短いボランティアではあったものの、少なからず自分たちは得たものがあったはずだ。それがなんなのかははっきりとはわからないが、でもなんとなく、人と人とのふれあいとでも言うのだろうか、そういったものの大切さを感じられたように思う。でもたぶん、もっと何回でもボランティアに行くたびに新しい何かを得られるような気がする。自分たちにできることは、今回のことを多くの人に知らせもっと多くのボランティアを集めること。そしてより多くの仲間を集めて、またあの地を訪れよう。
俺たちは大学生だ。多くの人々に伝える手段だってたくさんあるはずだ。
行動する勇気、一歩踏み出してわかることが世の中にはたくさんある。
たくさんの人たちにそれに気付いてもらいたい。まずはバイト先で今回のことを話してみよう。
2011年8月12日
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