軍事板初心者質問スレまとめ(FAQ) - ナチス
第2次大戦時のドイツにおいては一体全ドイツ兵の何割位がナチス党員だったのですか?
また、ドイツ国民の何割位がナチス党員だったのですか?
記憶ではドイツ人より、オーストリア人のほうが党員が多いとありました。
ドイツ全土の医師の半数、生物学者の約60%がナチス党員であり、人類学の教授のうち、10人に8人はナチス党員
ナチス幹部の4割はオーストリア人
ナチスのSAの階級ってどういうものがあるんですか?SSとは違うんですか
国防軍の曹長に等しいクラスの、SSとSAの階級の名称が
共に異なるだけで、SSとSAは同じ階級呼称をしています。
NSKKも同じです。
ユーゲントとは、主にどのような役目の集団だったのですか?
直訳すると「ヒトラー少年団」
ボーイスカウトのはとこみたいな感じからスタートした。
ガキの頃からヒトラーへの忠誠心を植え付けられた連中。
それで編成された師団は装備や補給で優遇され、攻撃力は装備のおかげ
で高いものの「不利な戦況」での戦争はあまりうまくないんで、味方に疎まれた。
捕虜の扱いが酷く降伏もしないので、連合国からはもっと嫌われたけど。
ナチスって何かの頭文字から取ったんですよね?正式名称を教えてください。
Die NationalSozialistische Deutsche ArbeiterPartei
(国家社会主義ドイツ労働者党)の"Na"と"zi"をとって"Nazi"="ナチ"
ナチ党自体は"NSDAP"と略されていました
「ナチス」ってなんで「ナチス」っていうの?
正式名称は「国家社会主義ドイツ労働者党」です。
ドイツ語では「Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei」
これの頭4字Naziに複数形のsをつけてNazis。
ただ、これは蔑称です。ナチス党員は「NSDAP」と自らの党を呼んでいました。
ナチスドイツが、なぜかショットガン使用を非難したそうですがなぜですか?
非難文の内容を知らないので、憶測でしか回答出来ませんが、
恐らくハーグ条約違反では無いかと思うのですが。
御存知だと思うのですが、軍隊で使用できる弾丸は、ダムダム弾効果が出ないように、
人体に当たっても変形しない様にと弾丸の先端まで銅で覆う事が、
ハーグ・ジュネーブ条約で決められており、
恐らくその違反行為に対する非難ではないかと思うのですが。
でも、相手がレジスタンスだしなあ・・・。
pimsleurを使用して、どのくらい日本語を学ぶ
たしか一次大戦で近接戦闘用に米軍がショットガンを利用したのよ。
でショットガンで撃たれた傷が余りにも無残なので
ワイマール共和国時代から非人道的と訴えていた訳、でも陸戦条約には盛り込まれず。
だったかな?
現在のドイツ国内では,WWⅡの軍装を着ると捕まりますか?ナチスものは法律で禁止されてるとか聞いたもので.
理由があれば捕まらない.
ドイツのリエナクターはちゃんとドイツ軍やってます.
一方で,ネオナチならば,ドイツ連邦軍の格好だろうが,米軍の格好だろうが,ナポレオン軍の格好だろうが捕まります.
理由は,彼らが制服を着る行為がナチ的なため….
ちなみに,S○Gという業者が江利香クラブという店名だったころに
「ナチスドイツ軍の軍装でロンメル将軍の墓参りに逝くツアー」
を敢行したことがあったが,参加者全員がドイツで入国拒否されたことがあるそうな.
(軍事板)
ドイツでは,戦死したナチスを弔った記念碑とかが問題になったりしないのですか?
ドイツにも戦死者を弔う施設はありますよね?
そこにナチスは入ってないって事ですか?
ナチス党員でも分け隔てなく埋葬されている.さすがに,ヒットラーとかアイヒマンやゲッペルスや,一般親衛隊(アルゲマイネ)は別ですが,戦死した武装親衛隊員は国防軍の兵士と同じ扱い.
ただ,ドイツの戦没者墓地は1万箇所以上あり.「まとめて弔う施設」は存在しない.
それ以前に,軍人の戦死者のみを一カ所で「祀る」感覚はヨーロッパにはない.
ヨーロッパは個人で宗教がバラバラだから,同じキリスト教でもカトリック,プロテスタントと細かいし.ヨーロッパの記念碑は軍人市民問わずに戦争の犠牲者を「記念(想い起こす)」ためのもの.
ホロコーストのメモリアルはあっても,そこに犠牲のユダヤ人が「祀られている」とは誰も考えない.ただの記念碑.
欧州的価値観で考えると,靖国はかなり特殊.
(世界史板)
なんでバチカンは、ナチスの残党の逃亡に力を貸したの?
モサドによるアドルフ・アイヒマンの拉致は、国際法上問題はなかったんでしょうか?
又、アイヒマンは何故、拉致,誘拐されたこでイスラエルを訴えなかったのでしょうか?
もちろん、違法行為ですのでアルゼンチンはイスラエルに抗議しています。
またアイヒマンは国際裁判ではなくイスラエルの裁判で裁かれたわけですのでそんな権利知ったことではありません。
ナチスの哲学とは何か
ナチスは死刑の方法にギロチンを使ってたんですか?
白いバラで有名なショル兄妹はギロチンで処刑されたそうですが
反政府主義者を処刑する為だけにギロチンを復活させた。
普通の犯罪者は絞首刑。軍人は軍法会議にかけられた時だけ銃殺。
ヒトラー暗殺未遂事件の時の関係者は軍人だったけど「銃殺は
名誉の死刑だから」ってことで絞首刑になってる。
反政府主義者を処刑する為だけにギロチンを復活させた。
普通の犯罪者は絞首刑。
近世から19世紀にかけてドイツ領邦においては執行される死刑のほとんどは剣や斧による斬首刑でした.
しかし,1871年のドイツ帝国成立以前からバイエルンやザクセンといった一部の領邦では旧来の斬首刑の代わりに
ギロチンを導入していました.ドイツ帝国建国時の議会で死刑廃止が提案されたのですが,死刑を廃止するのなら
帝国に加盟しないと主張する領邦が複数出てきたことに加え,刑法制定時に刑事犯への全国共通の死刑執行方法を
特に規定しなかったため,例えばベルリンやケーニヒスベルクでは重大な刑法犯は斧による打ち首に処されるが
ミュンヘンやライプツィヒではギロチンを用いて執行されるといったように統一されてはいませんでした.
1930年代半ばにヒトラーが以降の一般刑法犯への処刑方法をギロチンと絞首刑に限定したので当時ベルリンでしか
行われていなかった打ち首は処刑方法として廃止されましたが,当時ドイツに無かった(あるいは廃止していた)
ギロチンを復活させたわけではありません.また,斬首刑と絞首刑では当然後者の方が重く,一般的な刑法犯が
絞首刑に処されることはまずありませんでした
なんでナチスにおいてソ連の捕虜は惨かったんですか?
劣等民族と見ていたからです。
ナチスの教義では、東方(ソ連)地域を支配して、住んでいる劣等民族を奴隷化するとあります。
西側の国とは別に見ていたのです。
第二次世界大戦の初期には、ソ連兵捕虜にろくに食事を与えないで、餓死させていました。
ところが、戦争が進んで、ドイツ軍の前線や本国の工場で、人手が必要になると、ソ連兵捕虜の待遇は改善されました。
スターリングラードの戦いの際、ドイツ軍部隊の中には、歩兵の半数が元ソ連兵捕虜だったのもあったそうです。
参考図書。
スターリングラード 運命の攻囲戦1942‐1943
朝日文庫
(552:霞ヶ浦の住人 ◆SJ6H1biwJ2)
神々のグループ""何にちなんで名付け曜日"
ナチ党創始者のアントン・ドレクスラーに対して戦後なんらかの責任は問われたのですか?
また、ゴットフリード・フェーダーなど、党設立にかかわった初期メンバーの晩年はどのようなものだったのですか。
ドレクスラーは戦時中に死亡。
党内左派のグレゴール・シュトラッサーのようにナチによって粛清されたり、弟のオットーのようにネオナチ運動を起こしたり、非ナチ化裁判で裁かれてその後はひっそりと暮らしたりといろいろ。
ナチスドイツの鉄十字章や騎士十字章の材質ってわかりますでしょうか?
鉄製が普通だけど、海軍用のものは、鉄だとすぐ潮風でさびてしまうので銅を使ったそうです。
大戦中のドイツからナチ党員が脱出するとしたらどんなルートが使われたのでしょうか?
ナチスから逃れる人はスイスルートが多かった。
連合軍にとって重要な人物は、フランスからレジスタンスの支援で
直接イギリスに向かわせたりもしている(夜間、飛行機や小船、場合によっては潜水艦で回収した)。
連合軍がフランスに上陸して、前線がドイツに迫るに従い逆にドイツからの脱出は困難になったという。
かのフォン=ブラオンが連合軍に投降するため偽の命令書を駆使した話は結構有名。
カトリック教会(いわゆるヴァチカン)は反共意識が強かったので、多数のナチ党関係者が
カトリック教会のネットワークを利用して欧州外に逃れた。
南米の親独国家に逃れて潜伏した人が多いのはよく知られているところ。
ニュルンベルク裁判についての本を見るとよく目にする非ナチ化裁判って一体なんなのですか?
名の通りナチに協力した人を裁く裁判。俺の好きな音楽家が老い先短いのに
無罪なのにこれのせいで演奏しばらくできなかった。(ノД`)シクシク
BDM(ヒトラーユーゲントの女子版)について教えてください
特に風呂とか・・・
風呂の事は知らんが、夏にはよくBDMとヒトラーユーゲントの合同野外キャンプが行われた。
昼は一緒に薄着で体育実習。
夜は無論キャンプ地は別だがさほど離れているわけでもなく、しかも辺りは人目のつかない繁みが一杯。
ということで、キャンプから半年も経つと腹ボテBDM団員が続出した。
という「それなんてエロゲ」な事件がよくおきたそうだ。
ナチ党の副総統ヘスと総統の後継者に指名されてたゲーリング、どっちが地位が上だったの?
総統の後継者って、いってみれば皇太子みたいなもの?
党の副総統(総統代理)というのは国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)の党首としての総統の代行を努める役職。
ゲーリングが指名されたのはNSDAPの党首にしてドイツ帝国の最高指導者である首相兼総統の後継者。
ヘスは党のNo.2だがゲーリングは国家のNo.2
突撃隊と国防軍の 実力はそれぞれどの程度のものだったんでしょうか。
突撃隊というのはね、日本人にわかりやすく言えば、
ナチ版「盾の会」ですよ。
レーム自身が大尉どまりでおわっており、
最新の軍事技術や戦術の進展についていけていない。
政治的な動員を図るための組織で、量的には人を集められるでしょうが、
質的には「兵隊ごっこ」の域をでない。
真に有能な軍事的組織であるならば、
「長いナイフの夜」にああもあっさり親衛隊の前に粛清されるなんてこともなかったでしょうよ。
腋が甘すぎる。
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SA解体後は国防軍に吸収されたようですが、彼らの元SAという連帯意識は国防軍となった後も続いたのでしょうか?
SAは解体されたわけではなく、レーム事件以降も終戦まで党の組織として存続した。
ただし「党の軍隊」としての役割はSSに奪われ、規模も縮小されて主に国内や占領地域での治安維持など
国防軍の下請けみたいな位置になっている。
エリート隊員で編成されたSA連隊「フェルトヘルンハレ」は、国防軍に編入されて第60自動車化歩兵師団
「フェルトヘルンハレ」(後に装甲擲弾兵師団「フェルトヘルンハレ」)となった。
そして44年6月のバグラチオン作戦、45年2月のブダペスト包囲と二度にわたって壊滅した。
そのたびごとに師団残余を基幹にSAなどから人員をかき集めて再建され、45年2月に「フェルトヘルンハレ1&2」
からなる装甲軍団「フェルトヘルンハレ」となり、オーストリアで戦った後米軍に降伏している。
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